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現在でこそ、ビジネスホテルやカプセルホテルなど、「寝泊まり」に特化した宿泊施設がありますが、元来ホテルは文化の発信基地でもありました。
今回は、そんなホテルと食を中心とした文化の関係について、宿泊施設や旅に詳しいライター・こばみほさんにご寄稿いただきました。
旅をしていると、様々な「文化のルーツ」に出合うことがあります。
例えば、「カフェ文化」。
いまでは日本でも、世界のどこでもカフェは見かけますが、実はカフェの発祥の地はトルコのイスタンブールなのです。ときは遡り、オスマン帝国時代の1554年、二人のシリア人がコーヒーを出すお店をイスタンブールで始めたといいます。諸説あるようですが、これが世界初のカフェと考えられているそうです。コーヒーが伝来するまでトルコに外食産業はなく、コーヒーを片手に談笑ができる場所として、人々に親しまれ広がっていったのです。
古くからトルコはシルクロードの交通路として、アジアとヨーロッパを結ぶ重要な役割を果たしてきました。昨年トルコを2週間程旅をしていたのですが、様々な人種や文化が入り交じるトルコの人たちは、とってもフレンドリーで気さくな人が多い印象を受けました。1つの場所に集いコーヒーを飲みながらおしゃべりを楽しむという行為が、社交的なトルコの人たちのカルチャーにはとてもフィットしていたのではないでしょうか。
“起源”には、必ず何かしらの背景や意図、もしくは偶然のいたずらがあることが多く、モノのルーツを探ることは、歴史や文化の奥深さを知ることにつながります。
今回は「日本のホテル」に焦点をあて、ホテルが文化の発展に一役買ったエピソードをご紹介します。
その昔、西洋の文化をいちはやく取り入れたホテルは、文化の発信基地でした。ここで少し、日本におけるホテルの歴史について紹介したいと思います。
日本に「ホテル」が作られたのは、開国により多くの外国人が日本に訪れるようになったのがきっかけです。開国以前の日本にも、旅館や宿屋といった宿泊施設は存在しており、なんと現存する世界最古の宿は西暦705年(飛鳥時代)に創業した、山梨県の慶雲館という旅館でギネスにも認定されています。
しかし、日本の宿泊施設と西洋人にとっての「ホテル」は様々な違いがありました。西洋人が日本にきてまず驚いたのは、宿の「セキュリティ」です。
その頃の日本式の旅館は部屋に鍵がなく、障子で仕切られているだけの宿も多かったそう。西洋人の感覚からすると無防備に感じられ、安心して寝泊りすることが出来なかったのです。彼らからすると、ホテルとは個人のプライバシーと安全が守られ、寛ぐことができるという条件を満たすことが大前提でした。
こうした背景から、外国人が多く訪れた場所では、彼らによって多くの外国人用のホテルが建設されていきます。
もう1つ大きく異なっていた点は、西洋においては、ホテルは社交の場という役割も有しており、総合娯楽施設であったこと。寝泊まりするだけでなく、レストラン・バー・ビリヤード場といったパブリックスペースがあり、娯楽を楽しみながら交流をする場だったのです。このように、開国を契機に西洋からホテルという新しい概念がもちこまれ、日本の宿泊施設は大きく変化をしていきます。
日本で西洋式の「ホテル」が初めて建設されたのは幕末の1860年、オランダ人のC.J.フフナーゲルによって創設された「ヨコハマホテル」と言われています。船長だったフフナーゲルは、自身の船を売却し乗組員と共にホテルを開業しました。
建物自体は洋式ではなく和式の造りで、寝室などは簡素なものでしたが、幕末にレストランやビリヤード、バーを備えた娯楽施設は、当時の日本人にとっては驚きと謎に満ちた場所だったのではないでしょうか。医師のシーボルトや画家のハイネなどの著名人も滞在したと伝えられています。
この日本ではじめてのホテル内に併設されていたバーが、日本初の洋式バーであると考えられているそうです。現代でも横浜(特に関内エリア)には、本格的なバーが多く存在しており、ホテル発祥の地でもあり、バー発祥の地とも言われています。
横浜から世界に発信されたカクテルも存在するなど、開国によってもたらされたホテルは、日本のバーの文化にも大きな影響を与えました。
残念ながらヨコハマホテルは1866年の関内の大火により焼失してしまい、その短い歴史を終えてしまいます。現在はその場所には老舗のフランス料理レストラン「かをり」というお店が建っています。
ホテル発祥の地である横浜は、その後も日本の文化、特に「洋食文化」の発展に大きく貢献していきます。
しかし1923年(大正12年)、こうした西洋料理の発展の流れが大きく変わる出来事「関東大震災」が起こってしまいます。この震災により、関東は壊滅的な被害を受けます。震源地は小田原であったため、当時人口の集中していた横浜の被害は甚大でした。
横浜に存在していた西洋式の外国人ホテルは、ほとんどがこの震災によって失われ、日本に西洋料理を伝えた多くの外国人が帰らぬ人となりました。
横浜から撤退して帰国する外国人も多く、横浜の外国人居留地は一時廃墟のようになってしまいました。これにより、西洋料理のメッカといわれた横浜から洋食の歴史が一時断絶します。
そんな横浜の人々が夢と希望が失われそうになっていたときに、復興のシンボルとして建設を急がれたのが、現存する老舗クラシックホテル「ホテルニューグランド」でした。復興の一大プロジェクトとして横浜の官民が一体となって協力し合い、震災から4年後の1927年(昭和2年)に開業しました。
ホテルニューグランドは、開業当初から「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」をキャッチフレーズに、様々な洋食文化を日本へと発信していきました。そんなホテルニューグランドが発祥と言われている、私達にも馴染みのあるメニューのストーリーをご紹介します。
クリーミーで食べごたえがあり、大人から子供にまで人気メニュー「ドリア」。ドリアはホテルニューグランドで初代総料理長を務めたサリー・ワイルが考案した料理で、実は日本が発祥です。
サリー・ワイルは、メニューに「コック長はメニュー外のいかなる料理にもご用命に応じます」と記し、お客様の要望に合わせて様々な料理を作り提供していたそうです。
ある時、滞在していたゲストから「体調が良くないので、何かのど越しの良いものを」という要望を受け、即興で創作したのがドリアでした。
好評だったこの料理は、“Shrimp Doria”(海老と御飯の混合)として、レギュラーメニューになり、ニューグランドの名物料理の一つになっていきました。それが弟子達によって他のホテルや街場のレストランでも提供されて広まり、今や、全国の洋食の定番料理「ドリア」として大人気となっていきます。
こちらは、名物料理として、今でもホテルに併設されているコーヒーハウス「ザ・カフェ」で食べることができます。以前私もニューグランドに宿泊した際に食べたのですが「これぞ王道!」と感じるようなシンプルでありながら、非の打ち所のない味に感動しました。
ニューグランド開業からわずか十数年で、太平洋戦争が勃発。その後1945年に終戦を迎えますが、米軍による占領が開始され、ホテルニューグランドもGHQ将校の宿舎として接収されます。
サンフランシスコ講和条約後1952年に接収解除されるまでの間に、様々な進駐軍文化が横浜に流入してきます。そのうちの一つが料理でした。
米兵の持ち込んだ軍用保存食の中にスパゲッティとケチャップがあり、彼らは茹でたスパゲッティに塩、胡椒で味付けをし、トマトケチャップを和えた物をよく食べていたそうです。このケチャップスパゲッティは、食料事情が悪い中でも簡単に作れるということで、進駐軍文化に興味津々だった市民にも広まり、街の喫茶店で出されるようになり、日本中で流行しました。
一方、当時の2代目総料理長 入江茂忠は、味気ないケチャップスパゲッティを皆喜んで食べていることが気になり、ホテルで出すスパゲッティとして相応しいものとするため改良を重ねました。入江は、ケチャップスパゲッティに代わって、トマト風味を生かした風味豊かなソースを作り出し、スパゲッティと合わせてゲストへ提供。この料理は「スパゲッティ ナポリタン」と名付けられ、やがて全国へと広がっていきます。
終戦後7年間、GHQに接収されていたホテルは、その期間将校とその夫人が宿泊していました。ホテル内のボールルームでは、アメリカから送られてきた最新の映画が上映されるなど、横浜の中心にありながら、ニューグランドは外国のような特殊な場所であったため、デザートに関しても、将校夫人が喜ぶ、華やかで満足できるボリュームのものを出す必要がありました。
お料理好きの奥様方から、サジェスチョンを受けたこともあったそうです。 当時からアメリカのデザートはボリューム満点。そこで、アイスクリームや、アメリカから送られてきた缶詰の果物と組み合わせて出したのが、プリンアラモードのはじまりでした。
今回は横浜が中心でしたが、モノの起源には当時の時代背景や出来事が深く関係し、カルチャーが生まれ育まれていったことがわかります。
特に震災や戦争など大きなライフスタイルの変化のタイミングで、新しい文化が生まれていくことも多いのです。人間は、昔からその時代の暮らしにフィットする生活様式を柔軟に取り入れてきたのだと思います。
今、世界中が生活のあり方を見つめ直し、新たな未来にむけて動き出しています。しばらくは旅行に行くこと自体が難しい状況ではありますが、人々が再びホテルへの宿泊を楽しみに旅に出た時。
ホテルという場は生活者にとってどのような役割を果たしていくのでしょうか。
もしかしたら、場所に囚われずに働く人が増え、ホテルは住居のような立ち位置になるかもしれない。より健康に配慮をする人が増え、現代版湯治や滋養食などの文化がホテルから生まれていくかもしれない。
いつの時代も、ホテルは人々のライフスタイルに寄り添い、その時代にあったカルチャーや新たな価値や発見をゲストに感じてもらえる場であってほしい。私自身もそんなホテルを生み出していきたいと強く感じています。そしてどうか、これまで育まれてきた文化や伝統が途切れることなく、これからも受け継がれて欲しいと切に願っています。
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ホテルと旅の研究/プロデューサー
こばみほ
自身の趣味でもある旅やホテル巡りの経験を活かし、フリーでランスで旅や地方のプロデューサーやPR・ライターとして活動。その他、ホテルの運営・プロデュースを行う会社にて、既存・新規のホテルのプロデュースや企画を担当。SNSでは、ホテルや旅の魅力を、歴史やストーリー・その土地の文化から紐解き発信中。ホテルと歴史、渋い宿が好き。日々、「こんなホテルがあったらいいな」を妄想中!twitter@kobamiho52c Instagram kobamiho52c